2013年

5月

07日

正しさは、臆病なぐらいでいい

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自戒を込めて。常々思っていることですが、「正しい」という力は、とても強く、そして危険です。こんな記事を読みました。


【関連記事】

「加害者を潰せ」正義暴走(敵がいる:5)(朝日新聞DIGITAL)


いじめを受けて自殺した生徒がいまして、で、加害者の母親と間違われてしまった女性がインターネット上で名指しされ、ひっきりなしに電話がかかってきたり、脅迫の手紙が届いたりし、追い込まれていった、という内容です。


自分は社会の為に正しいことをしていると勘違いした人達が、全く関係の無い人を追い詰めてしまった、ということなんですが、加害者の母親だと思った人が実は別人だったことや、暴走した多くの人の持つ正しいという感覚の妥当性など、そこにある種のズレがあったことは、問題の本質ではないような気がします。


本当に大事なことは正しいということそのものが、非常に危険な存在、取り扱い注意の意識であるということです。毎日の、ほんのちょっとしたことでも、自分が正しいと感じている時は、注意しなければいけません。正しいことをしているから大丈夫ではなく、正しいことをしているんだから気をつけなければいけない、そういう意識が大事だと、自分を含めてなんですが、確認したいのです。

 


正しさには暴力がつきまとう

 

正しさには暴力がつきまといます。

 

正しさは、批判を呼びます。自分が正しい振る舞いをし、人の振る舞いを正すという意識です。それは人をコントロールしようとする意識です。そして、人をコントロールしようとすると、その延長には暴力が顔をのぞかせます。もちろんこの場合の暴力は、肉体的、物理的なものだけでなく、精神的なものを含みます。というか、僕らの日常を考えるなら、精神的なものの方が多いかもしれませんけどね。


警察というのは社会的に正しいとされる存在ですが、社会を正す為に、ある程度の暴力を許容されています。でなければ、社会の悪とされる存在を正すことができないからです。故に、その力の運用にはたくさんの厳しいルールが必要ですし、常に監視の目に晒されていなければいけません。


親が子どもを叱る時も、学校の先生が生徒を教育する時も、会社の上司が部下を指導する時も、正しいという意識の元に相手をコントロールしようとし、それはいとも簡単に暴力になることがあります。肉体的にも、精神的にも。

 

ある一定のルールの中で社会が営まれていく以上、正しいという共通意識のもとに人が人をコントロールしようとすることは不可避です。しかし、注意は払わなければいけません。この子の為なんだから、しかたがない、正しいことをしているんだから大丈夫、ではいけないんです。正しいことをしているんだから、気をつけなければいけない。正しさに自分を許して、相手を攻撃してしまっている危険を考える必要があります。

 


正しければ正しい程、人を簡単に追い詰める

 

大げさな話ではなく、何か間違いやミスがあった相手に対して、正論で詰めていくというのは、それ自体が大変暴力的な行為になり得ます。自分の言っていることが正しければ正しいほど、相手はどんどん追いつめられていきます。

 

これは僕が実際、奥さんを相手にやってしまうことがあり、本当に気をつけなければいけないと思っている例です。

 

奥さんが買い物をする時、例えば食器洗い機を買うという時に、僕に相談がきます。その時僕は「買うのはいいけど、結局あれって食器洗い機にセットするのが面倒で、使わなくなったりしない?」と言いました。奥さんは大丈夫だと、活用できると言って、食器洗い機を買うことになりました。


その後、案の定あまり使わなくなってしまった時に、僕がふと「結局使わなくなったね」というのを奥さんに言ったことがあります。その時最初は、奥さんを注意するような気持ちはなくて、ただ、自分が前に言ったことが正しかったというのをちょっと言ってみたくなっただけでした。

 

でもそれは、奥さんの側からすると、痛いところをつかれた格好になり、つい、言い訳をしてしまいます。その言い訳を聞いた僕は、思わずそれはおかしいと、買う時に大丈夫か確認したはずだ、その時奥さんが何と言ったか等々、正論で奥さんに詰め寄ります。


その後はケンカですよね。奥さんは自分が悪いと思っているのに、というか、悪いと思っているからこそ、正論で詰め寄られたらどんどん苦しくなって、素直に謝りにくくなります。そもそも僕も最初は奥さんに謝って欲しいわけじゃなかったのに、謝らせないと収まりがつかなくなっていきました。


で、最後奥さんが泣いちゃったりするわけですが、食器洗い機を買ったのが無駄かどうかで奥さん泣かせて、何かいいことあったのかと。それで無駄の無い買い物を心がけるよう奥さんを注意できて満足だったのかと言えば、そんなわけありません。大事な奥さん泣かせて本当に馬鹿みたいです。


本当のところは、お互い無駄な買い物をしたな、と思っているんです。僕も、奥さんも。それをただ共有すればいいだけの話で、奥さんを追い詰める必要はありません。というか、そもそも追い詰めようとは思っていなかったんです。だから、僕は気軽に指摘しました。それでも、奥さんの側からすると正しさをつきつけられて追いつめられることがあるんです。

 

もちろん、この話はこの1件だけで起こることではなく、僕がいつも何かにつけて、奥さんがミスをすると正論を振りかざそうとする癖があって、奥さんは随分追いつめられていたんです。

 

これはとても危険なことです。特に危険なのは、自分は正しい、と思っていることなのです。素直に謝れない奥さんも悪いのかもしれませんが、「奥さんが悪くて自分は正しいんだ」とこのまま突き進んでいくと、きっと関係は修復できないところまで壊れてしまいます。

 


勇気のない正義の恐ろしさ

 

さらに現代において恐ろしいのは、インターネットという便利な仕組みです。


僕は仕事柄、インターネット上で匿名の発言をするということはほぼ無くなってしまいましたが、匿名で色んな情報発信ができるということは、基本的には素晴らしいことだと思っています。普段の人間関係や社会的立場から離れて、思っていること、考えていること、知っていることを発信できる、それによってより自由に、多くの情報を交換できるようになりました。


しかし、匿名という安全地帯は、これまでお話してきた正しさが持つ暴力性を加速させる力があります。


自分の個人情報が明らかな場所では、仮に自分が正しかったとしても、相手を批判するのにはそれなりのリスクがあります。批判をするからには、自分自身が同じ間違いをおかしていないか、その批判に妥当性があるかどうか、批判するに足るだけの信頼出来る情報を得て言っているのか、周りから見られます。また、誰かを批判することが、自分の社会的立場を危うくすることもあります。現実世界では、正しさを行使するのに、相応の責任が必ず伴います。批判は、勇気を要する行為です。


一方で、現実世界ではなかなか正しさが発揮できないフラストレーションが、匿名のインターネットで発散されるということがあります。誰の目からも監視のされない、責任と勇気の伴わない正しさは、より鋭い暴力性を発揮し、誰かを攻撃することがあります。


そして、正しいが故に、多くの人の良心によって拡大していきます。しかも、気軽に。正しいことなんだから、大丈夫と。そうじゃないんです。


たくさんの人が、安全なところにいて、勇気の要らない気軽な正義を振りかざすというのは、本当に恐ろしいことです。その手加減の無い正義が誰かにむかっていっぺんに集まれば、それはとてつもない暴力になり得ます。それこそ、冒頭で紹介した記事で書かれていたような事例に。

 


正しい時こそ、慎重に


正しさの持つ暴力の強さに比べれば、悪意ある攻撃なんて、たいしたことはありません。だって、悪いのは相手ですから。周りの人も、社会も、ルールも、味方してくれます。でも、正しさがその拳を振り下ろしてくる時は、孤独になります。自分たちが正しいと思って、孤独な相手をみんなで追い詰める、そういうことが起こります。恐ろしいことです。


「正しい」という力は、とても強く、そして危険です。そんな恐ろしい力を行使するのには、臆病になるぐらいで丁度いいのです。相手を追い詰めてしまうかもしれない、傷つけてしまうかもしれない、それは全て自分に返ってくるかもしれない。そんな中で勇気を持って正しさを発揮するからこそ、使い方にも気をつけるようになります。

 

傲慢にふるわれる正しさ、慣れでふるわれる正しさ、安全なところからふるわれる正しさ、全て恐ろしい暴力になり得ます。臆病者の勇気ある正しさなら、相手を思う優しさも、きっとついてきてくれます。

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